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CSR活動

当社グループのCSRのルーツ

地域社会との共生、人という財産を守ること

当社グループのCSR のルーツは、今から110年以上前に開発された当社創業の地・日立鉱山(茨城県)にさかのぼります。日立鉱山では、煙害問題の解決を図る中で、地域社会と共存共栄しながら発展を目指す姿勢を貫きました。また、鉱山の従業員が安心して働ける環境を整備し、従業員を尊重する気風を育んできました。当時の時代を先取ったこうした考え方は、今も当社グループに引き継がれています。

地域社会との共生

「煙害問題」との闘いだった鉱業の草創期

20世紀初頭、日本における鉱業の草創期は、「煙害問題」との闘いの歴史でもありました。当時は、製錬に伴って発生する亜硫酸ガスを有効に回収する技術が、まだ確立されていませんでした。日立鉱山も例外ではなく、亜硫酸ガスを含む排煙が原因で周囲の森林が枯れ、農作物にも被害が広がっていました。
この難題に、日立鉱山は地域住民に対して誠意を持って被害補償を行うとともに、発生源である亜硫酸ガスを効果的に拡散、希釈するなどの対策に取り組みました。しかし顕著な効果は得られず、むしろ被害が増大して、事業の存続までも問われる状況に至ったのです。

155.7メートル。社運を賭けた大煙突の建設

完成当時世界一の高さの大煙突

背水の陣ともいうべき状況の中で、創業者・久原房之助が提唱したのは、排煙を広域に拡散するため当時として世界一の高さの煙突を建設し、煙害による影響を最小化するという方法でした。この方法は、さまざまな科学的データの解析結果に基づいたものでしたが、当時の煙害対策の常識とはかけ離れたものとみなされ、産・官・学界から多くの反対を受けます。久原は、それらを押し切って決断を下しました。延べ約3万7,000人の人員と、巨費を投じた大煙突の建設は、まさに社運を賭けたプロジェクトだったのです。
そして1914年(大正3年)12月、当時世界一の高さとなる155.7メートルの大煙突が完成し、煙害を激減させることに成功しました。

荒廃した山に緑を取り戻す植林事業に着手

大島桜の植林

当時の日立鉱山が、次に地域社会のために行ったことは、煙害によって荒廃した山に緑を取り戻そうという、本格的な植林事業の開始でした。農事試験場を製錬所の近くに設け、林業専門家を配置。耐煙性の高い樹木や農作物を育成しました。それらの苗木は、日立鉱山が所有する山林に植林するだけでなく、地元の方々にも無償で配布しました。その後、配布の範囲を社宅、学校、道路、鉱山電車沿線など、街中にも広げていきました。

耐煙性樹の第一号は、大島桜でした。1917年(大正6年)から1929年(昭和4年)までの13年間で、日立鉱山が植林した苗木は500万本。うち大島桜は330万本、植林面積は延べ1,200町歩に達したと言われています。地元の方々の手により植えられた苗木も500万本になり、鉱山の植林分と合わせると1,000万本に達しました。

「街づくりのシンボル」として生き続ける大煙突

日立さくらまつり

現在の大煙突

日立の街は4月になると桜花一色に染まり、「さくらの町」として全国で有名になりました。振り返ると、大煙突の建設と桜の植樹は、草創期の煙害という“苦しみ”を、“人々の至福”へと変える大きな原動力になったとも言えます。そこには、日立鉱山創業以来の当社のCSRのルーツである「地域社会との共生」が、百年の歳月を超えて生き続けてきた証があります。

大煙突は1993年(平成5年)、下部3分の1を残して突然倒壊しました。現在は、修復されて54mの高さになりましたが、日立市のシンボルとしての存在に変わりはありません。

当時の日立市長からは、次のような言葉が寄せられています。「大煙突の高さは、先人達の志の高さでもあった。姿は変われども、大煙突が訴える街づくりの心は不変である」――。

人という財産を守ること

鉱山は「職場」と「生活の場」でもあった

日立鉱山の供給所

当社グループの根幹を支えているもう一つのCSRのルーツは、「人という財産を守ること」です。

久原は、都市から離れた場所にある鉱山での事業を成功させるためには「従業員が安心して働ける環境」が重要と考えました。そこでまず、鉱山での生活水準の向上に力を注ぎました。久原は、従業員が家族とともに生活できるインフラ整備に着手。住居をはじめ、学校、病院、鉄道および娯楽施設などを設けた、総合的な街づくりを行いました。
このような職住が一体となった街で従業員が苦楽をともにすることで、連帯感が育まれると同時に、会社組織の内部にも従業員を尊重する気風が根付きました。

この考え方は現在も当社グループに引き継がれており、役職や年齢、性別を問わず自由な意見交換ができる、風通しの良い働きやすい職場環境が維持されています。

初代庶務課長・角弥太郎の思想が結実した「温交会」

日立鉱山の草創期、庶務課長や所長を歴任した角弥太郎は、煙害による地元住民への補償などに尽力した人物です。「道義をもつて事を貫く」という角の思想・信念。それは人という財産を守り、安心して働ける職場環境を整備するにあたり、「質実剛健・質素勤勉を奨励しつつ、例え一鉱夫のことといえども、その幸福を考える」ことでした。具体的には、「鉱山への不平・不満の声を聞けば、直ちにその原因を究明し、速やかにそれを解消する」「職場も社宅も和をもって尊しとする」ことを実践しました。

これらの集大成が、1920年(大正9年)に発足した「温交会」です。この会の主旨は、会社と従業員が福利厚生面を中心に話し合い、その向上を図るというもので、まだ封建制度が厳然として残る時代に、文字どおり“温かみのある交流” に努めました。温交会をはじめとした制度や、当時の日立鉱山での暮らしは、日鉱記念館で学ぶことができます。

角 弥太郎

日鉱記念館