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創業者・久原房之助の精神

創業者・久原房之助

JX金属グループ創業者である久原房之助は、1905年(明治38年)、日立鉱山を開業し、わずか数年で日本有数の銅山に成長させました。
1912年(大正元年)、久原鉱業を設立、非鉄金属業界のトップ企業に導くとともに、国内外の事業を拡大し、「日産コンツェルン」形成の基盤を築きました。政界に転じた後は、逓信大臣、立憲政友会総裁などを歴任。戦後は日中・日ソの国交回復に尽力しました。

一山一家(いちざんいっか)の精神

当社グループの「従業員」に対する考え方のルーツは、1905年の日立鉱山の創業時にまで遡ります。日立鉱山は他の鉱山と違わず、山間深くにありました。創業者の久原房之助は、都市から離れた不便な場所にある鉱山での事業を成功させるためには「従業員が安心して働ける環境への配慮」が必要と考え、鉱山での生活水準の向上に力を注ぎました。これが当社グループの基本の考え方である「従業員尊重」の精神の始まりです。

久原は従業員が家族とともに生活できる環境づくりに取り組み、住居だけではなく子供のための学校や病院、鉄道、娯楽施設まで含めた街づくりを行ないました。

「久原が赤沢開発に乗り込んだ時、彼には大きな夢があった。自分の開くこの鉱山とその付近一帯の地に、浮世の荒波から忘れられた一つの桃源郷を造り出そう。そこには労資の相克とか、事業と地方の対立とか云ったものの全く見られない、全てが混然一体となった楽天地を想像しようというものである。ほほえましい夢と見る人もあろう。愚の類と考えるものもあろう。崇高な心構えと嘆ずる人もあろうが、果たして如何にこの夢は具現化したのか。」(日立鉱山史より)

大正初期の本山中心部

この久原の夢は、やがて独特の施策となって日立鉱山社会に実現し、従業員自身が「おらがヤマ」と呼び、「一山一家(いちざんいっか)」と呼ばれる風土を生み出しました。

こうした職住一体の環境下で苦楽を共にすることにより、従業員の間に連帯感が生まれると同時に、会社内に従業員を尊重する気風が育まれ、現在まで引き継がれています。

大煙突精神

1905年の日立鉱山創業開始当時、銅の製錬に伴い発生する亜硫酸ガスによる公害問題が深刻化し、鉱山経営の根幹を揺るがす危機的な事態へと発展しました。しかしながら久原は不屈の精神で当時世界一の高さを誇った大煙突を建設、これが煙害問題の解決の道筋をつけることに成功したことが、同山を日本有数の銅山たらしめた大きな要因となりました。

難題に対しても逃げることなく真摯にかつ実直に取り組まんとするこうした姿勢は、今も当社グループの中に生き続けています。

久原は晩年、公害問題について以下のように述べています。

「公害問題は常に新しい。それは、人類に背負わされた永遠の十字架にも似ている。科学の発達につれて、公害もますます多角化していく。
これを食い止めようと、いかに多くの人々が、血のにじむ努力と苦悩を積み重ねてきたことか。しかし、此の努力が人類の進歩をもたらす原動力となっていることを考えると、公害の問題は、むしろ、われわれに対して「克己」ということを教えてくれているとも言えよう。
日立鉱山についても同様のことが言える。煙害問題なしに鉱山の歴史は語れない。大正3年12月、当時、世界最大と言われた煙突を、日立鉱山が独自に完成して、此の問題に終止符を打つことができたのであるが、これは凡そ10年に亙る歳月、地域住民と共に苦しみ、悩み、そして自らの手で解決し得た貴重な経験であった。富士山が、ただ高いのではないと同様、日立鉱山の煙突も、ただ高いだけではないのである。」
「日立鉱山煙害問題昔話」(関右馬允著、1963年)に寄せた久原房之助の巻頭言より

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