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大雄院(だいおういん)病院通りの長屋と子供たち(大正時代)
明治末期、日立鉱山の発展がはじまると各地から職を求めて人が集まりました。社宅は谷を埋め、斜面を切り崩して山の上にまで作られるようになりました。従業員の親子ばかりでなく両親・兄弟・親戚まで一緒に移ってくる現象が見られ、数年にして本山地区だけで1万数千人が生活するようになりました。
大正初期の通勤の様子
大雄院製錬所は、他の鉱山の鉱石を大量に受け入れることを予定して建設されました。1908年、他鉱山の原料鉱石の搬入や、製品出荷のための線路が、今の日立市シビックセンター付近から製錬所まで、5.3キロメートルにわたり敷設されました。トラックに切り替わる1960年まで、52年にわたり活躍しました。
この電車は客車を連結しており、誰でも無料で乗車できることで人々に驚かれました。
万城内広場の仮装行列(大正時代)
昭和40年代の盆踊り風景
毎年7月14・15・16日は山神祭で、全山仕事を休み、山神社(さんじんしゃ)に奉納する行事や、趣向を凝らした余興が行われました。歌舞伎・狂言・踊り・曲芸その他の演芸の屋台がくまれ、露天が出るとともに、花火が打ち上げられ、盆踊りの和が幾重にもできました。無料で楽しめたこともあって、従業員の親族に周辺地域の人々も加わり、数万人の人出となりました。この山神祭は今でも続けられています。
完成して間もない頃の共楽館
その建屋の豪壮雄大な外観や規模から「上野以北にその比少なし」と称された共楽館は、1917年の完成以降、文化的行事の中心となりました。名の売れた歌手や俳優が出演したほか、様々なイベントに用いられました。1945年以降は常設映画館として親しまれましたが、テレビの普及にともない、現在は日立市に寄贈されて武道館として使われています。
共楽館の内部(1929年)
映写機(本山劇場で使用)